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講話

11月11日 朝礼

おはようございます。
 今週の土曜日に、広島学院関係物故者追悼式があります。今日は、そのことに関して、少し話をします。

 広島学院関係とは、今ここにいる生徒や教職員とそのご家族、そして、卒業生や退職された教職員など、広島学院と直接、あるいは間接的に関わりのあった方々です。この追悼式は、そういった方で、今はこの世を去られた方々の死を悼み、ご冥福をお祈りする式典です。冥福を祈るといっても、みんなにとっては、ほとんど知らない人ばかりかもしれません。でも、そういう方々の関わりがあったから、今の広島学院があり、私たちがここで学ぶことができるのだということを、心に留めておかなければなりません。と同時に、こういった方々から受け継いだこの学校を、しっかりと次に引き継いでいく決意を新たにする式典でもあります。みんなにとっては「学院生として恥ずかしくない態度で学校生活を送ります」という決意を新たにすることでしょう。そういう追悼式の意味をよく理解し、亡くなられた方々や来校されるご遺族に失礼がないように、きちんとした態度で式典に参列してください。

 そして、追悼式は、死ということについて自分なりに考えてみる機会でもあると思います。私自身、今まで家族や親戚、友人や知り合い、そして学院の生徒や卒業生など、何人かの身近な人との悲しい別れを経験しました。その度に、死は本当にいつどんな形で突然やってくるかわからないということを実感し、結局自分にできることはしっかりと生きていくことしかないのだということを、強く感じさせられました。死について考えるといって、死ぬ瞬間はどういうものだろうとか、死んだらどうなるのだろうとか、そんなことだけを考えていても、何もわからないし恐ろしくなるばかりかもしれません。死について考えるというのは、そういうことだけでなく、誰もがいずれ必ず迎えなければならない死を自分なりに受け入れるためには、その時までをどう生きたらいいのか、ということを考えることにつながってくるものだと思います。

 ところで、ある世界的に有名な分子生物学者が、生命とは何かという問いに対して、答えることはできないがあえて言うならば「生命とはDNAに保存された情報である」と答え、それでは簡単すぎるので「生命とは、分裂・成長することを目的とした、選択され組織化された分子の集まりである」とも言えると答えています。私にはよくわかりませんが、生命を生物学的に定義したらそういうことになるのでしょう。だけど、私たちにとって生きるとか死ぬとかいうのは、こういう生物学的な意味での生命を保つとか失うということだけではありません。もっと深い意味を考えたいし、また考えなければならない。それを考えることで、私たち命は、もっと豊かな意味のあるものになると思うからです。

 今週の言葉は「メメントモリ」というラテン語の言葉です。「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」とか「死を想え」という意味です。みんなも、追悼式を機会に、そういうことを考えてほしい。さっきも言ったように、それがもっと豊かな生き方につながるはずだと思うからです。

 最後に1つお知らせしておきます。
 長束にイエズス会の修道院がありますが、そこには初代校長であるシュワイツェル先生をはじめ、学院のために働かれたイエズス会の方々のお墓があります。また”Men for others”を世界中のイエズス会学校に発信したアルペ神父様の胸像もあります。毎年、追悼式の後、何人かの先生が希望する生徒と一緒に長束の修道院に行って、追悼式で飾っていた花をお墓に捧げています。今年もお墓参りをしますので、一緒に行きたいと思う生徒は、高山先生に申し出てください。