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講話

2月16日 朝礼

おはようございます。
 マラソン大会が無事に終わり、行事予定表を見ると今学期も残りはあと1か月です。この最後の1か月を落ち着いた雰囲気で過ごすためにも、この前に話した「瞑黙」を大切にしてほしい。瞑黙は、この学校では挨拶などと同じように、生活の基本になるものです。気持ちのこもった瞑黙をしてもらいたい。そういう思いで、瞑黙という言葉をもうしばらく掲げておきます。

 さて、今朝はまず、先日ある方からいただいた手紙に書かれていたことを、みんなに紹介します。古江の電停の近くで働いておられる方からで、ある生徒に感謝の気持ちを伝える内容の手紙です。1週間ほど前の強い風の吹いていた日のことのようですが、その方の職場の前に置いてあったたくさんの自転車が強風のために倒れたので、職員の方が倒れた自転車を元に戻そうとして、持っていた大切な書類を風で飛ばされたそうです。それで、その書類を懸命に拾い集めていたのだけれど、そばを通りかかる人はみんな素知らぬ顔をして通り過ぎて行った。そんなとき、学院の生徒の一人が電停の方から駆け寄って来て、一緒に書類を拾い、自転車の整理まで手伝ってくれたそうです。この行動に感激し、感謝の気持ちを伝えてもらいたいと、この職場の責任者の方がわざわざ丁寧な手紙を送ってくださいました。便せん3枚に、達筆で、美しい文章が綴られています。

 その中でこの方は、社会に出て貢献できる立派な人間というのは、何よりもまず人を思いやる優しい気持ちや、人に手を差し伸べる勇気を持った人だとおっしゃっています。そして、そういうことのできる力を本来は誰もが持っているはずなのでしょうが…、ともおっしゃっています。私もそう思います。この生徒の名前も学年も分かりませんが、おそらくこの生徒にしてみれば、”men for others”を当たり前のように実践したということしょう。だけど私たちは、この当たり前のことがなかなかできないことが多い。勇気がなくてできなかったり面倒だと言って逃げたりする、あるいは当たり前のことに気付きさえしないこともあります。人の痛みや人の苦労に無関心であったり鈍感であったりすることの方が当たり前になっているのではないか、この手紙を読んで、あらためて反省しなければならないと思いました。それと、感謝の気持ちを伝えるためにわざわざ丁寧に手紙を書いて送るというのも、簡単にできることではない。こういうことをきちんとできる人間でありたいものだとも思いました。

 話は変わりますが、今週の水曜日はキリスト教では「灰の水曜日」と呼ばれる日です。昨年もこの時期に朝礼で話しましたが、灰の水曜日は、復活祭の日から日曜日を除いて40日遡った日と決められています。今年は4月5日が復活祭で、そこから日曜を除いて40日遡ると今週の水曜日になります。そしてこの40日間をカトリック教会では「四旬節」といい、いつも以上に自分の生活を振り返り、心を清らかにして復活祭のお祝いの準備をします。

 今週の水曜日、1時から合併室で灰の水曜日の典礼が行われます。その中で司祭が、一人一人の額に灰で十字架の印を付けます。この灰は、棕櫚という木の枝、それが無ければそれに代わる木の枝を燃やして作ったものです。棕櫚の木は旧約の時代から聖なる木として崇められ、勝利や力の象徴とされていたそうです。それを燃やして作った灰を額に付けることで、私たちの体は最終的には塵となっていく儚いものだということを思い起こします。と同時に、灰は古くから石鹸の代用品として洗ったり清めたりするために用いられていたということで、額に付けられた灰は、心をきれいにし新しくするといった意味も込められています。神(宇宙万物を造った永遠なるもの)の前では人間はほんの小さな取るに足りないものであると再認識し、謙虚な気持ちになって傲慢な自分を悔い改め、新しい自分に変わろうと決心する、そのための典礼です。新しい自分に変わるとは、自分の足りなさや弱さを認め、それらと向き合いながらも、与えられた才能を生かしてチャレンジする自分になるということです。灰の水曜日は、そういう前向きな気持ちを確認する日でもあります。この典礼には誰でも自由に参加して灰の印を受けることができるので、ぜひみんなも水曜日1時に合併室に来てください。