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講話

6月1日 朝礼

おはようございます。
 先週の金曜日から、5人の卒業生が教育実習のために学校に戻ってきています。一人ずつ簡単に自己紹介をしてもらい、代表の人に挨拶をしてもらいましょう。

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 さて、謙遜という言葉を廊下に掲げ、3週間前の朝礼でも話をしましたが、謙遜というのはどうもわかり難いという声を聞きます。それが気になりながらも、その後話す機会がなかったので、今日、もう一言だけ話しておこうと思います。

 私たちが日ごろ使う謙遜という言葉には、確かに、人の目に映った自分を意識してへりくだっている演技をしている、そんな負のイメージもあります。

 謙遜という言葉を掲げた理由は、3週間前にも話した通り、聖書に「謙遜でありなさい」と出てくる、その聖書のいう謙遜とはどういうことかを考えるためです。そして、聖書の教えでいえば、謙遜とは、「神に対して畏敬の念を持ち、その前で自分自身を騙すことなくあるがままに認める態度のことである」という話もしました。
 こう言うと、神を信じる気持ちがあるのかどうかということが、まずは問われているように思うかもしれません。だけど、信じていますとは言えなくても、人の力の及ばない絶対的な存在とか、宇宙万物を創った永遠なる存在について、自分なりによく考えてもらいたい。そうすることで、自分とは何者か、自分は何のために生きているのかといった、自分自身についての深い問いに対して、何か納得できる素敵な答えを見つけることができるのではないかと思うからです。
 広島学院の4つの宝の1つに「敬虔」があるのも、そういう絶対的な存在について深く考えてもらいたい、憧れを持ってもらいたい、そういう存在の気配を感じてもらいたいという思いがあるからです。

 いずれにしても、ここで言う謙遜とは、人に見せるためにへりくだったり控えめに振舞ったりすることではありません。高慢にならず、卑屈にもならず、自分の本当の姿をあるがままに認めて、それを受け入れる態度のことです。それが、自分らしく生き生きと前に進んでいくための土台になるのだと、私は思います。 
 もうしばらくこの言葉を掲げておきますので、みんなも考えてみてください。