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講話

6月15日 朝礼

おはようございます。
 今日は、最近新聞で読んだ「国立大学の学部見直し」ということについて、思うところを話します。私が読んだ記事は、こんな内容でした。

「文部科学省は全ての国立大学に、今ある学部などを見直すように通知した。主に人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ」
「特に教員養成系や人文社会科学系学部・大学院について見直し計画を作り、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に取り組むことを求めている」
「自然科学系の研究は国益に直接つながる技術革新や産業振興に寄与しているが、人文社会科学系は社会の需要にあった人材をあまり育てていない。すぐに廃止と言うのではないが、意識を変えてほしい」

 実際に、国立大学には多くの税金がつぎ込まれているのだから、「社会的要請の高い分野」の研究や教育に力を入れるのは当然だけど、それにしても「社会的要請の高くない分野」の学部は廃止や転換をしろというのは、少々乱暴すぎるような気がします。
 日本は戦後70年、経済成長を一生懸命に追い求め、それを実現してきましたが、その分、よく注意をしておかないと、ついつい様々な事柄を経済的な価値だけを優先して、判断してしまいやすい。それも、長い目で見るのではなく、目先の利益や有用性だけに価値を置いてしまう危険性があります。本当にそんな社会にしてしまったら、そこには豊かな未来、明るい未来はないでしょう。学問も同じで、地道な基礎研究の積み重ねが将来花開くかもしれないし、一見役に立たないけれども大切なことはたくさんあるはずです。「社会的要請の高い分野に転換する」ということが、「すぐに役立つものでなければだめだ」ということであれば、そんなことを求める社会には、豊かな未来、明るい未来は感じられません。大学は、どんな学問に対しても寛容で、豊かに学べる場であり続けてもらいたいと思います。

 ところで、大学は専門の学問や芸術を深く研究し教授するところですが、それに対して中学や高校は、学問的にいえば、幅広く知識や技術、教養を身につけるところです。社会的要請が高いかどうか、あるいは大学受験に必要かどうか、それだけが学びの基準になるわけではありません。
 だけどそう言うと、勉強の嫌いな生徒ほど、今習っていることは将来役に立つのか、などと文句を言う。役に立つということが、仕事のためにとか、金儲けや何か物を得るためにというのであれば、あまり役に立たないかもしれません。だけど、もっと自分の内面を育てるとか、色々なことに興味を持って人生を楽しむといった、精神的な豊かさを得るためということであれば、今習っていることは、何でも全て役立つ可能性は十分にある。しかも、そうなるのに十分なほど内容も深い。そして、今習っていることのほとんどは、高校を卒業したらもう習うことはないかもしれません。そういう授業をみんなは受けています。あとは、それを受けるみんなの気持ち次第でしょう。
 マジスの精神を大切にしてください。