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講話

1学期始業式

おはようございます。
 まず59期生のみなさん、高校入学おめでとう。高校入学と言っても新しい仲間との出会いがあるわけではなく、担任や授業を担当する先生の顔ぶれもそんなに変わらず、広島学院での生活の後半が始まるという程度にしか思わないかもしれません。しかし3週間前にも話したように、君たちは9年間の義務教育課程を終え、これからは自分の意思と責任で、高校生活を続けることになります。自分自身の将来についても現実的なこととして真剣に考え始めなければならないし、精神的にももっと逞しい青年へと成長していかなければなりません。簡素な式ではありますが、高校生になったということをしっかりと自覚してもらいたいと思います。

 さて、今日から2017年度が始まります。昨日は新中1、62期生の入学式があり、新たに190名が加わりました。その入学式では、マタイによる福音にある「あなた方の中で偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」という箇所が朗読されました。ここでいう「偉くなる」とは、出世する、高い地位につく、権力を持つといった意味でしょう。
 イエスの12人の弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いかといった議論をすることがあったようです。あるとき、そのうちの2人の弟子が、自分たちを高い地位につけてほしいとイエスに頼みました。他の10人の弟子は、この2人が自分たちを差し置いて高い地位につけてほしいと頼んだことに腹を立てます。みんなそれぞれに、名誉や権力がほしかったのでしょう。
 そんな弟子たちの様子を見てイエスは「偉くなりたい者は、人に仕えられるのではなく人に仕える者になりなさい」と教え諭しました。権力によって人を支配し人に仕えられようとするのではなく、人のために働き人に仕える者になりなさいという教えです。
 広島学院が創立以来生徒に言っている「人に仕えるよきリーダーになりなさい」というのは、この聖書の言葉によるものだし、イエズス会学校が目標にしている”Be men for others, with others.”も、このイエスの言葉「仕えられるのではなく仕える人になりなさい」と同じ意味です。

 広島学院での6年間の生活を通してこの目標を実現していくために私たちが心得ておかなければならないことが、毎年、年度初めに配られる「生活のしおり」に書かれています。その最初のページにある「学院の教育」と題して書かれている部分を一部を抜粋して読むと、
 
  生徒諸君は、自己の研鑽・修養に励むとともに、与えられた豊かな才能を伸ばす使命を担って
  いる。自己の能力を最大限に伸ばす努力を通じて、広島学院の生徒は、他者のため大いなる働
  きのできる人間に成長しなければならない。

 自己の研鑽・修養に励むとありますが、「研鑽」とは技術や能力を鍛えて磨きをかけること。学問などを深く究めること。「修養」とは心を磨き優れた人格形成に努めること。学院生に求められているのは、能力を磨き、学問を究めることだけではない。品性を養い、優れた人格形成に努めなければならない。そうして、与えられた豊かな才能を最大限伸ばす努力をすることで、他者のために大いなる働きのできる人間へと成長できる。これが広島学院の教育であると書かれています。
 創立時から多くの生徒は、自己の研鑽と修養に励むことに学院生としての誇りを持っていました。みんなもそれに倣ってもらいたいと思います。

 ところで、正門が新しくなりました。今後、倒壊の恐れのある正門周辺の背の高いヒマラヤスギが伐採され、あの辺りの風景も随分変わる予定です。これまでの正門は、創立当時から本校の出入り口としてずっと使われてきたものでした。私は40数年前、中学生のときに何人かの同級生と初めて広島学院を訪れましたが、そのとき最も印象に残ったのは、深い緑に包まれた正門周辺の落ち着いた風景でした。その風景がなくなるのは残念ですが、新しい正門が、訪れる人にとって新しい時代の広島学院として記憶に残るものになってくれればと思います。
 それと、その正門を入ってすぐ左側の奥にお墓が並んでいます。福蔵寺の東側でなく南側のお墓です。このお墓の多くは、広島学院が建てられるまでは下グランドのプール付近や校舎の建っている辺りにあったお墓で、本校を建てるために今の場所に移していただいたものです。こういったところにも、この学校を創立するに当って地元の方の期待と協力があったということを、みんなも知っておいてください。

 学校の風景は少しずつ変わっていっても、学校が大切にしていることは、創立時から変わりません。新しい年度の初めに当って、あらためて「自己の研鑽と修養に励む」という言葉を思い出し、今日からまたこの言葉に相応しい学校生活を送ってもらいたいと思います。