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講話

6月26日 朝礼

おはようございます。
 高校2年生は土曜日から沖縄へ修学旅行に行っています。沖縄はちょうど梅雨が明け、学院のHPにも写真が載っていましたが、いい旅行を続けているようです。5日間の旅行の前半、今日の午前中までは、平和学習です。戦争の悲惨さや平和の尊さを伝える戦跡や資料館を見学し、地元の方のお話を聞き、慰霊碑の前で祈りを捧げる。夕食後もホテルに講師を招いて、さらに学びを深める。そのようなプログラムが続きます。そして今日の午後からは、マリンスポーツなどのレジャー、沖縄の自然や観光を楽しむプログラムになっています。
 高3の生徒は去年行ってよく分かっていると思いますが、本校の沖縄の修学旅行は、先生方の長年の研究や工夫もあって、プライベートな旅行では経験できない内容の濃いものになっているので、下級生も期待してください。

 さて、今週から廊下には「平和を実現する人々は幸いである」という言葉を掲げてもらいます。実は、今年はフィリピンのナガ校との交流が始まってちょうど20年になります。それを記念して、学院からナガ校に、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」というマタイによる福音の一節を日本語と英語で書いた掛け軸を贈ることになりました。書道の中村先生が書いてくださいますが、その言葉の前半部分を各廊下に掲示してもらいます。
 この言葉は「山上の説教」といわれる場面に出てきます。イエスが小高い山に登り、大きな岩に腰を下ろし、近くに寄ってきた弟子たちに教えを語る。多分、大勢の人々が弟子たちの周りに集まってきて、一緒にイエスの話を聞いたのだろうと思います。そのイエスの第一声は「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」そして「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と続きます。「心の貧しい人々は幸い」「悲しむ人々は幸い」という言葉も気になりますが、それはまた別の機会に考えるとして、そのもう少し後にこの「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という言葉が出てきます。

 平和とはどういうことか、どんな状態を平和というのかについては、人それぞれに色々な考え方があるでしょう。みんなも自分なりによく考えてみないといけないと思いますが、この聖書によると、イエスは「平和を愛する人」とか「平和な状態にある人」ではなく「平和を実現する人」が幸いだと言っています。平和はいつの間にかそこにできているものではなく、自分たちで作り出さなければならないものだということです。平和を実現するためには、自分たちの正義を貫くための戦いをしなければならないという考え方があるかもしれません。しかしそうやって戦いに勝った方だけに実現するのが平和だというのは、何か違うような気がします。あるいは、政治家になったりNGOを設立したりして、世界平和の実現に貢献することを志す人もいるでしょう。それは立派なことですが、イエスがここで求めていることは、それとも少し違うような気がします。
 ここでイエスが言っている平和とは、目の前の人との人間的な繋がりによって実現する平和ではないかと私は思う。目の前の人、特に立場の弱い人、また目の前の人が自分とは考え方や意見の違う人であっても、その人と人間的な温かみのある繋がりを持ち、互いに生きている喜びを感じ合えるような関係を築くことが、イエスの言う平和を実現するということだと私は思います。もちろんそれはなかなか難しい場合もあります。だけど、そういう生き方を、イエス自身が身をもって示しました。だから、平和を実現する人々は神の子と呼ばれる、すなわち、キリストのような人と呼ばれるのだと思います。

 そのように考えると、私は、この「平和を実現する人々は幸いである」というイエスの言葉はナガ校との20年の交流の記念に相応しい、本当にいい言葉だと思います。私も経験したし、今までフィリピン研修に参加した多くの生徒も経験したと思いますが、フィリピンに行って、ナガ校や色々な所で出会った人たちに、たくさんの励ましや喜びをもらいました。自分たちがフィリピン研修で出会う人に何かできればと思っていましたが、実際には出会った人たちが「平和を実現する人々」でした。
 ささやかなことであっても目の前の人との繋がりを大切にして、そこに平和を実現するように行動する。そのことを、ナガ校との20年の交流を通して学校としても学んできました。この学んだことを忘れないようにしたいと思います。