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講話

2月26日 朝礼

おはようございます。
 昨日、平昌オリンピックが終わりました。韓国と北朝鮮が、統一旗を掲げて入場行進したり、アイスホッケーが合同チームを作ったりと、政治や外交の問題もかなり注目されました。それぞれの国の本音がどこにあるのかはよく分かりませんが、平和の祭典を妨害するようなことは起こらず、その点は良かったと思います。
 色々な競技をテレビで観戦していると、やはり日本の選手の活躍ぶりが気になり、いいメダルを期待してしまいます。だけど、周囲の期待にあまり答えることのできなかったある選手が、試合後のインタビューで「力は出し切れたので、満足しています」と爽やかに答えているのを聞いたときに、いいなと思いました。目標を持って何年もの長い間努力を重ね、それで目標通りの結果が出れば最高ですが、本当に価値があるのは、結果ではなくそこまでの努力です。高い目標を掲げて精一杯の努力を続けてきて、晴れ舞台で力を出し切れたときに得られる満足感は、本当に尊い満足感だと私は思います。

 さて、廊下には3週間前から「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉を掲げています。前にも言ったように、新約聖書に出てくるパウロの言葉です。中1のILの授業でみんなに話をしたと思いますが、パウロはユダヤ教の厳格な家庭に生まれ育ち、イエスの教えは伝統的なユダヤの教えを破壊するとして、初めはキリスト教徒を激しく迫害しました。しかし、それが正しいと信じて迫害し続けても、なかなか自分の心が満たされない中で、突然、回心のときが訪れます。イエスが十字架で亡くなってから2、3年ほど後のことです。聖書によれば、キリスト教徒を弾圧するためにエルサレムからダマスコに向かう途中、復活したイエスの声を聞くという体験をし、イエスが救い主キリストであることを悟ります。そのときから、パウロはイエスの教えを特に異邦人に伝える使命を果たすために、生涯を捧げます。それは苦難の連続でしたが、強い信仰によってその苦難が生きる希望へと変えられていった、その体験に基づく言葉です。

 そのパウロの信仰体験は置いておいても、この言葉は、「苦難によって人は鍛えられ、成長できるのだから、苦難から逃げるのではなく、それを試練として積極的に受け止め、乗り越えていこう」というような意味で、一般にも理解できると思います。
 人生は苦難の連続だという人がいますが、自分にとって苦難だと思っても、他の人の苦難に比べれば大したことはないということはよくあります。ただ、苦難と言えるほどのものかどうかは別にしても、私たちの生活には苦しいことや難しいことも色々とあり、希望が見えないような状況であっても忍耐しなければならないときが誰にでもあります。問題は、その忍耐が練達を生むような忍耐かどうかということです。
 練達とは、物事に熟練し、理解が深く達人の域にあることです。「練られた品性」と訳している聖書もあります。「練る」とは鍛錬の錬、品性とは人柄とか人格のこと。鉄はハンマーで叩くことで硬くなり、形が整えられますが、鉄が冷たいときは、叩く力がある限界を超えると、歪が生じ、亀裂が入り、砕けてしまいます。しかし鉄に火が入って赤く熱せられていると、強く叩くことによって、不純物が取り除かれて純度が高まり、硬さが保たれて、例えば名刀といわれる見事な日本刀にも仕上がります。

 私たちも、苦難に直面したときに、自分の不運を嘆くばかりだったり、諦めとか無力感が先立ったりして、忍耐といってもただじっと黙って苦難が過ぎ去るのを待っているだけでは、いつか限界を超えて、忍耐が憔悴を生み、憔悴が絶望を生むかもしれません。聖書にある「忍耐」という言葉の原語は、「雄々しく苦難に立ち向かう」という能動的な意味を持っているそうです。苦難を前にして、最初は元気が出ないかもしれないけど、いつかどこかで、鉄を熱くするように元気を出して、雄々しく立ち向かっていかなければならない。それが練達を生む忍耐であり、そうすることで人格は磨かれていくということです。
 この「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉を、私たちも、ただの気休めの言葉としてではなく、励ましの言葉として受け取ることができればと思います。