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講話

1学期終業式

例年ならば、今日はちょうど夏休みが半分過ぎた頃ですが、今年はようやく1学期が終わります。4月、5月の休校期間もオンラインでの配信があったということで、それも含めると本当に長い1学期でした。コロナ禍の影響で、今まで経験をしたことの無いようなことにいくつも直面しながらも、みんなはここまでよく頑張って学校生活に励んでくれたと思います。
 一方、新型コロナウイルスの感染拡大が収まりません。6月末の全校朝礼で、新たな感染者が全国で113人確認され今後どうなるか心配だと話しました。しかしそれから1カ月余り経って、昨日は1485人ということで、10倍をはるかに超える数になりました。このまま拡大すると2学期の始業式の頃にはどうなっているのか、本当に心配になります。夏休み中も、熱中症対策とともに感染対策に十分に心掛けてください。

 さて、昨日は広島の原爆の日でした。広島学院の創立と深い関わりのあったペドロ・アルペ神父は75年前、爆心地から6km離れた長束の修道院で、原子爆弾の爆発を目撃しました。後にアルペ神父が8月6日について語っておられることを、抜粋して紹介します。

 「8時15分、マグネシウムの火炎を思わせる閃光が走るのが部屋の窓から見え、驚いて部屋を出ようと扉を開けたところ、恐ろしい爆発音とともにものすごい力の一撃に襲われ、体は床にたたきつけられた。家は激しく揺れ、ガラスは壊れ、戸は外れ、屋根瓦やレンガが降り注いできた。」
 「広島市内の方向に煙の塊が立ち上っているのに気付き、眺望のよい丘に登ってみると、瓦礫となった市内が見えた。その後1時間半から2時間の内に、街全体が猛烈な炎の海と化していった。」
 「この状況で自分たちに何ができるかを考え、まずは怪我人を修道院に収容するために修道院を片付けることを決断した。」
 「原爆投下後12時間経って、漸く市内に入ることができた。それは想像を絶するような光景であった。瓦礫の下にある残り火の熱さを感じながら、一歩一歩、通りを歩いて行った。完全に破壊された街が横たわっていて、数千人の傷ついた人々が助けを求めている悲惨な光景であった。」

 実際にこの日から、長束のイエズス会員たちは、郊外に出て多くの食料や医薬品を集めながら、収容された150人の負傷者の治療看病に献身的に努めました。さらに廃墟となった街に出かけて、助けることのできる命を助け、また、ペストが蔓延しないよう、放置されたままになっている夥しい遺体を掘り出して、何十体も山のように積み上げて荼毘に付すなど、復興のためにできる限りのことを尽くしました。
 アルペ神父は若い頃、大学で医学を学んだので、医学の知識を十分に持っていました。原爆投下直後、市内にいた医師のほとんどが亡くなるか重傷を負った中で、アルペ神父は、被爆者の治療に最初から携わっていました。当時はまだ原子爆弾の人体への影響について知る者など誰もいなかったそうですが、アルペ神父は、関わった被爆者たちの様々な症例から、今では分かっている放射線障害の兆候を見出していました。そういった原子爆弾の恐ろしさと早い段階から闘っていました。

 これらの経験を踏まえ、25年経ってアルペ神父は「原爆投下」という出来事について次のように語っています。
 「広島での出来事は、非人間的な悲劇として私たちの心に突き刺さっている。幾万もの命が無差別に奪われたからというだけでなく、自分自身の技術を誇りたいための人間の自己破壊があり得るという前兆として、今でも人類を脅かし続けているからである。」と。
 そして「原子爆弾がある限り、政治的国家的な目的達成のためにこれを再び爆発させようとする国などないと、誰が保証できるだろうか。それが使用されないという信頼に足る保証はただ1つ、原子爆弾が存在しないことである。」とも仰っています。

 この言葉から50年たった今でも、世界の状況は変わりません。アメリカでは今でも、原爆投下が戦争終結を早め、多くの米兵らの命を救ったとの主張が主流だと聞きます。核兵器がある限り、そういった肯定的な解釈は、また同じことを起こす恐れに繋がります。
 同じ悲劇を繰り返さないために、私たちは特に広島で生きる者として、この歴史上の出来事を正しく人に伝えることができないといけない。そのために、当時のことを読んだり見たり聞いたりして、正しいことを知る努力を、これからも続けなければなりません。広島や長崎の原爆の日を迎え、あらためてそのことを強く意識したいと思います。

 アルペ神父と本校の関わりについては、別の機会に話をすることにして、以上で終業式の話を終わります。9月1日の始業式に全員が元気に集うことができるよう、いい夏休みを過ごしてください。